太極拳を鍛練するには
まず套路(練習する為に型を繋げたもの)を覚える
最初は、他の事は意識せず、型・形を意識する。
それが、考えなくても意識しなくても、
勝手に体が動く、無意識レベルになったら
次に意識することを 加えて練功する。
太極拳は武術なので、穏やかな流れるような動作でも
そのひとつひとつには攻防の意味合いがある。
それを理解し、常に見えない敵を感じながら動作することにより
体操が太極拳になり、初めて勁力(氣を伴ったチカラ)が
生まれるのではないだろうか。
それも無意識に意識できるようになったら
また、次の事柄を意識に加えるのではないだろうか。
この辺りで、呼吸に意識を向けると
たぶん自然に拳勢呼吸になっていると思う。
拳勢呼吸(以前にもふれている⇒太極拳の拳勢呼吸って!)とは、
腹式呼吸・逆腹式呼吸・胸式呼吸などで
ゆっくりな動作にはゆっくりで均一な深い長い呼吸
発勁時などには、長く吸って速く吐く、速く吸って速く吐くなど動作と呼吸が自然に調和していることである。
(楊式太極拳の場合は、明勁による発勁動作は殆どないが)
これは、動作に呼吸を合わせるのではなく
意念によって、呼吸・氣が動き、勁力が発生し身体を動かす。
『以心行意、以意行気、以気運身』心を以って意を行い、意を以って気を動かし、気を以って身体を動かす。
細かい要求が他にも沢山あるだろうが
ひとつひとつをクリアーし繰り返し練功することによって、
無意識に行えるものを増やしていくのではないかな。
そして、総てが無意識レベルになった時、
太極・タイチー(宇宙)と一体になれるのではないだろうか。
私の認識としては、攻防の意により勁力が発生していれば
一見、流れるような美しい舞のようでも太極拳であり
同じ氣を用いた同じ動作でも攻防の意識のないものは気功である。
偉そうなことを書いているが、大したことが出来るわけではない。
現在は、何時間も練功するわけでもなく、太極拳の套路をしない日もあるし、
気功の套路をしない事もあるし、氣の向くままである。
しかし、日常の中で氣が向けばスワイショウをしたり
例えば、肩や胸に力が入っていれば、含胸抜背・氣沈丹田反り腰になっているのに氣付けば、尾閭中正にしたり など
反射的に行っていたりする。
そして、私にとって氣功も太極拳も「氣の舞」であり、どちらも好きで
それらを通して、自分の身体の中や外の感覚や、それらの変化を楽しんでいる。
まず套路(練習する為に型を繋げたもの)を覚える
最初は、他の事は意識せず、型・形を意識する。
それが、考えなくても意識しなくても、
勝手に体が動く、無意識レベルになったら
次に意識することを 加えて練功する。
太極拳は武術なので、穏やかな流れるような動作でも
そのひとつひとつには攻防の意味合いがある。
それを理解し、常に見えない敵を感じながら動作することにより
体操が太極拳になり、初めて勁力(氣を伴ったチカラ)が
生まれるのではないだろうか。
それも無意識に意識できるようになったら
また、次の事柄を意識に加えるのではないだろうか。
この辺りで、呼吸に意識を向けると
たぶん自然に拳勢呼吸になっていると思う。
拳勢呼吸(以前にもふれている⇒太極拳の拳勢呼吸って!)とは、
腹式呼吸・逆腹式呼吸・胸式呼吸などで
ゆっくりな動作にはゆっくりで均一な深い長い呼吸
発勁時などには、長く吸って速く吐く、速く吸って速く吐くなど動作と呼吸が自然に調和していることである。
(楊式太極拳の場合は、明勁による発勁動作は殆どないが)
これは、動作に呼吸を合わせるのではなく
意念によって、呼吸・氣が動き、勁力が発生し身体を動かす。
『以心行意、以意行気、以気運身』心を以って意を行い、意を以って気を動かし、気を以って身体を動かす。
細かい要求が他にも沢山あるだろうが
ひとつひとつをクリアーし繰り返し練功することによって、
無意識に行えるものを増やしていくのではないかな。
そして、総てが無意識レベルになった時、
太極・タイチー(宇宙)と一体になれるのではないだろうか。
私の認識としては、攻防の意により勁力が発生していれば
一見、流れるような美しい舞のようでも太極拳であり
同じ氣を用いた同じ動作でも攻防の意識のないものは気功である。
偉そうなことを書いているが、大したことが出来るわけではない。
現在は、何時間も練功するわけでもなく、太極拳の套路をしない日もあるし、
気功の套路をしない事もあるし、氣の向くままである。
しかし、日常の中で氣が向けばスワイショウをしたり
例えば、肩や胸に力が入っていれば、含胸抜背・氣沈丹田反り腰になっているのに氣付けば、尾閭中正にしたり など
反射的に行っていたりする。
そして、私にとって氣功も太極拳も「氣の舞」であり、どちらも好きで
それらを通して、自分の身体の中や外の感覚や、それらの変化を楽しんでいる。